次世代薄型テレビとして注目されていたSEDテレビだが、キヤノンが事業化を断念した。次世代薄型テレビはどうなっていくのだろうか。【続く
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MONEYzineニュース「キヤノンが断念したSEDテレビとは何だったのか 液晶・プラズマに続く次世代薄型テレビの行方」(宮島理)
2010/8/29
— posted by 宮島理 at 12:37 pm
小沢出馬を「政治とカネ」で批判するのは政策不在の証拠
2010/8/26
民主党代表選に小沢一郎前幹事長が出馬。今のところ、菅首相との一騎打ちとなる模様だが、これほど露骨に政局オンリーの首相選出選挙が行われるのは、1990年代の自民党総裁選以来だろう。有権者が望んだ通り、「新しい民主党=古い自民党」政治が着々と実現している(もっとも、仮に十分な公開討論が行われなければ、「古い自民党」以下の最悪の首相選出選挙となる)。
案の定、菅陣営はおかしなことを言っている。「政治とカネ」などという、くだらないことをまた持ち出しているのだ。「政治とカネ」というのは、日本政治の中では、政策不在で政局しかない状況において多用される、愚民思想満載の言葉である。「政治とカネ」ということを強調する政治家は、「政策なんてどーでもいい。クリーンとかフレッシュとか言ってれば、バカな有権者どもはいくらでも操作できる」と言っているに等しい。
まず、小沢出馬が決まる前段階から、蓮舫行政刷新担当相がこんな愚民思想丸出しの発言をしていた。
「蓮舫行政刷新担当相も『前政権時代のようにさまざまな政治とカネの問題を起こしてもらいたくないとの思いが政権交代につながった。その国民の声は無視できない』と、小沢氏を牽制した」(産経新聞
)
今さら言うまでもないことだが、政権交代が起きた2009年衆院選で、「政治とカネ」がテーマになったことは一切ない。バラマキ・既得権護持という、「古い自民党」もびっくりの利権政治を約束したからこそ、民主党は政権交代を果たせたのだ。これまでも何度も書いてきたように、「政治とカネ」がテーマなら、民主党は2007年参院選と2009年衆院選で惨敗していなければおかしい。蓮舫氏は、事実とは正反対の「国民の声」を捏造するのをやめるべきだ。
「安倍政権でも荒井大臣と同様の事務所費問題が発生したが、安倍首相本人には問題は発生していなかった。一方で、民主党の小沢代表には、本人に土地取得問題が発生していた。それでも、参院選では民主党が勝利した。『政治とカネ』などという問題に有権者が重きを置いていない明白な証拠である。(略)
民主党の鳩山代表にも小沢幹事長にも、『政治とカネ』問題は浮上していた。総選挙前から、その内容についてはメディアでしっかりと報道されていた。それでも、総選挙では民主党が勝利した。2度の国政選挙で、有権者は『政治とカネなんてどうでもいい』という意思を明確に示したのである」(「菅政権でも『政治とカネ』報道──『有権者はイメージでしか政治を理解できない』という愚民思想報道はいい加減やめるべき」
より)
「政治とカネ」で真っ黒な民主党を有権者は圧倒的に支持した。「政治とカネ」なんかよりも、バラマキ・既得権護持の方が重要だからだ。鳩山・小沢が支持を失ったのは、バラマキ・既得権護持政策の実現に疑問符がついたからであって、菅がそれ以上にダメなら、やっぱり小沢か、となっても何ら不思議はない。
要は、税負担や機会損失をすべて新卒・無業などの新規参入者や将来世代に押しつけて、労組利権、高齢者社会保障給付などのバラマキ・既得権を護持することが最優先事項というわけだ。「今現在の自分たちさえ良ければ、あとはどうでもいい」という「政権交代の精神」は今もはっきりと生きている。
だからこそ、菅陣営は「政治とカネ」でしか小沢陣営を批判することができない。政策的にはバラマキ・既得権護持ということで一致しているからである。問題は、どちらが利権を握るかということなのであって、人口減少、グローバル化への対応や世代間格差の解消といった重要課題を解決する発想はそこには存在しない。唯一、課題解決を実践してきた構造改革路線をぶっつぶしたのが民主党なのだから、当然といえば当然だ。
「首相側近は『首相は完全にファイティングポーズだ。「この代表選は、民主党が本当の民主党になれるかの分水嶺だ」と思っている』と対決姿勢」(朝日新聞
)
ここで、菅首相が言っているとされる「本当の民主党」というのも、別に政策的な特徴があるわけではない。単に「小沢と違ってクリーンでフレッシュでオープンな民主党」といった、フワフワとしたイメージしかないのである(実際には菅陣営もクリーンでもフレッシュでもオープンでもないわけだが、愚民思想の持ち主にとっては自己イメージだけがすべてなので彼らは気にしない)。「本当の民主党」などというものは、菅陣営のお仲間にとってはおおいに盛り上がるネタなのだろうが、大多数の国民はもちろんのこと、民主党支持者にとっても、心の底からどうでもいい話だろう。代表選の結果がどうなろうと、政策論争を封じた民主党利権政治は、あと3年続く。
— posted by 宮島理 at 04:00 pm
「2020年がどうなろうと、おれの知ったことではない」という高齢者の国家道連れ願望
2010/8/23
駒村康平・慶応大学教授と松谷明彦・政策研究大学院大学教授の対談記事で、駒村氏が興味深いエピソードを紹介している。
「あるところで年金の話をしたら、年配者から『2020年がどうなろうと、おれの知ったことではない。年金はともかく1円も下げるな』とか『子どもにお金を回すなら高齢者に回せ』という発言があった。有権者が高齢化すればこうした声はますます大きくなるのではないか。社会保障が世代間の助け合いのシステムだと理解しない人が増えている」(毎日新聞
)
まさに、私が「世代間格差と敬老精神──『お年寄りを大切にする』と『ワシを敬え』の決定的な落差」
で書いたような発想に陥っている高齢者がいるということだ。近年の日本社会の精神性を表すものは、このような引退世代の悪しき利己主義、「ワシだけを一方的に敬え」という「敬ワシ精神」である。
つまり、「未来とか成長なんてどうでもいいから、とにかく今あるカネをワシに分配しろ」という精神が蔓延っている。もう少し上品な言い方をすれば、「日本は成熟社会で成長の限界に達しているのだから、これからは競争や投資を制限して、保護と再分配を重視しましょう」という理屈である。
なぜそういう精神が蔓延るのか。それは、自分自身の精神の衰えと国家の衰退を混同している人が増えているからだろう。さらに歴史観が欠如しているから、「自分が死んでしまえば、国家もないに等しい。だから、できるだけストックを食いつぶしてやる」という、刹那的でありながら同時に自己保身的な発想になる。そこまで刹那的にならなくても、(生産性向上ではなく)反成長の立場から日本の成熟社会化を論じ、「まったり生きよう」だの「江戸時代のようになろう」だのといったことを言う人はいくらでもいる。
精神の衰えと実年齢は関係ない。20代、30代でも、すっかり衰えている人はいるし、逆に60代、70代でも、進取の気性に富んだ人はいる。ただ、一般的に実年齢とともに精神が衰えることが多いので、高齢化ニッポンでは、「国家道連れ願望」のようなものが大きくなっている。
所得倍増計画を支えた下村治も、そのような精神から逃れられなかったように思う。成長論者としての下村は、所得倍増計画当時、世間からの批判にもひるまず、イノベーションの力を信じて持論を曲げなかった。
「こういう批判があったのですよ。設備投資が盛んなのはけっこうだけれども、どんどん設備投資をやれば生産力は増える。それでは供給過剰になるじゃないか、という……。つまり供給が過剰になるのであって、成長にはならないというのですよ。需要がどこから出てくるか、というわけです。(略)
これはつまり、成長というものが、インノヴェーション、生産性向上、産業の高度化によって、うまく実現できるということが、過去のヨーロッパや戦前の日本の経済成長が非常に制約されていたことから、どうしてものみこめなかった、ということでしょうね」(三國一朗・井田麟太郎編『昭和史探訪』より所得倍増計画を回想する下村の発言)
ほんの10年前にもどこかで聞いたような話である(笑)。下村を尊敬しているという竹中平蔵氏による経済政策もまた、「供給過剰になるだけだ」「需要を喚起するのが先だ」と批判された。所得倍増計画当時の日本でも、反イノベーションの思想は存在したが、平成ニッポンと違って、所得倍増計画を妨害しないだけの進取の気性を多くの国民が持っていた。
成長論者だった下村は、晩年になって反成長へと「転向」した。晩年の下村は「経済的に高い水準を達成したうえでのことだが、ゼロ成長の日本は江戸時代のような姿になるのがいい。経済の後には文化とか芸術とか教養に力を入れる時代になるべきじゃないのかな」と語っていたという(水木楊著『思い邪なし』より)。反成長、反イノベーションの思想が江戸時代を観念的に美化するというお約束は、下村にもあったのかもしれない。
最後に、小泉首相が最初の所信表明演説で言及した「米百俵の精神」を改めて紹介したい。今こそ、この精神を取り戻すことが必要ではないだろうか。
「社会保障制度は、国民の『安心』と生活の『安定』を支えるものであります。今世紀、我が国は、いまだ経験したことのない少子高齢社会を迎えます。これからは、『給付は厚く、負担は軽く』というわけにはいきません。社会保障の三本柱である、年金、医療、介護については、『自助と自律』の精神を基本とし、世代間の給付と負担の均衡を図り、お互いが支え合う、将来にわたり持続可能な、安心できる制度を再構築する決意です。(略)
明治初期、厳しい窮乏の中にあった長岡藩に、救援のための米百俵が届けられました。米百俵は、当座をしのぐために使ったのでは数日でなくなってしまいます。しかし、当時の指導者は、百俵を将来の千俵、万俵として活かすため、明日の人づくりのための学校設立資金に使いました。その結果、設立された国漢学校は、後に多くの人材を育て上げることとなったのです。今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか。
新世紀を迎え、日本が希望に満ち溢れた未来を創造できるか否かは、国民一人ひとりの、改革に立ち向かう志と決意にかかっています」(2001年5月7日の小泉内閣総理大臣所信表明演説
より)
「山本有三の戯曲<米百俵>の中で、虎三郎は『早く、米を分けろ』といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。
『この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……』」(長岡市ホームページ
より)
— posted by 宮島理 at 07:41 pm
MONEYzineニュース「自治体が続々と参入、話題の「水ビジネス」 個人投資家もウォーター・ファンドに注目」(宮島理)
日本人にとっては空気のような存在の上下水道には、世界トップクラスのノウハウが眠る。100兆円規模の水ビジネス市場をめぐる動きとは。【続く
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— posted by 宮島理 at 01:05 am
世代間格差と敬老精神──「お年寄りを大切にする」と「ワシを敬え」の決定的な落差
2010/8/20

16日に厚生労働省が公表した集計結果によれば、医療費が過去最高額となった。なお、ここでの医療費とは「公的医療保険と公費から支払われた分」のことである。
「2009年度の医療費が過去最高を更新して35兆3000億円だったことが16日、厚生労働省の集計で明らかになった。前年度より1兆2000億円(3.5%)の増加。高齢化が進んだためで、70歳以上の医療費が全体の44%を占めた」(朝日新聞
)
医療費の多くが高齢者向けであることに不思議はない。高齢になればなるほど、病院にかかる機会が増えていくからだ。しかしそれも、現在の高齢者が応分の負担をしていれば、の話である。生涯の受益と負担がバランスしていれば、年を取ってから多額の医療費を享受しても何ら問題はないけれども、現実には、現在の高齢者は少ない負担で多くの受益を得ている。
世代会計で見ると、2003年時点で引退世代の生涯純受益はプラス4900万円だった。大幅な受益超過である。これを改善すべく、小泉改革では社会保障費の抑制が行われた。その結果、2008年時点で引退世代の生涯純受益はプラス4000万円と微減になった。それでも大幅な受益超過であることに変わりはない。にもかかわらず、「弱者」を自称する現在の高齢者は、「年寄りは死ねというのか」「高齢者いじめだ」「日本からは敬老精神が失われてしまった」と、大騒ぎした。その結果、高齢者の既得権護持と福祉バラマキを推し進める民主党政権が誕生したということは、これまでに何度も書いてきた。
一方、将来世代の負担はひどいことになっている。2003年時点で将来世代の生涯純受益はマイナス4600万円だった。本来であれば、社会保障費を大幅に抑制するか、引退世代への課税を進めるしかない。しかし、小泉改革でも十分には手を出せなかった。引退世代が応分の負担を嫌がった結果、2008年時点で将来世代の生涯純受益はマイナス8300万円と、大幅に負担超過が進んでしまったのである。選挙権を持たない将来世代は、「弱者」を自称して政治家に脅しをかけることもできない。小泉改革以降の自民党政権、民主党政権では、福祉バラマキが復活し、さらに世代間格差を広げていく政策が行われている。
ここで問いたいのは、日本人の美徳である敬老精神とは一体何なのかということだ。敬老精神の対象とは、決して現在の高齢者に限られるものではない。敬老精神は、「老い」に対する敬意であり、もっと言えば「ご先祖様」に連なり、子や孫に連なる連続性への敬意である。当然のことながら、そこには将来の高齢者に対する敬意も含まれる。
つまり、現在の引退世代に対しても、将来の引退世代(現在の将来世代)に対しても、同じように敬老精神が発揮されなければならない。現在の引退世代にはプラス4000万円の「誠意」(ヤクザ的な意味での)を見せるが、将来の引退世代にはマイナス8300万円の不当なペナルティを科すというのは、単に現在の引退世代が「ワシだけを一方的に敬え」と言っているのと同じだ。敬老精神ならぬ「敬ワシ精神」である。そのような現在の引退世代の悪しき利己主義を、「お年寄りを大切にする」という美名で容認することはない。もちろん、だからといって「年寄りはさっさと死ね」という類の暴言も容認されるものではない。
過去から現在、現在から未来への連続性を重視する保守主義の立場からも、世代間格差は深刻な問題と言える。敬ワシ精神という堕落した保身主義と一線を画し、保守主義は正しく敬老精神を発揮していく必要がある。
— posted by 宮島理 at 02:21 pm


