「特に不況のときが大事で、次の好況に備え、飛躍の準備を怠らないことが大事だ」(石橋正二郎)

 世界的タイヤメーカーであるブリヂストン(旧・ブリヂストンタイヤ)の創業者・石橋正二郎は、不況の時にこそ果敢に挑戦し、会社を大きく飛躍させてきた。
 そもそも、ブリヂストンの創業も、逆境から生まれたものだった。1929年から始まった世界恐慌の真っ只中、既に家業を発展させて地下足袋・ゴム靴で成功していた石橋は、あえて自動車タイヤに参入することを決意する。当時の日本は自動車後進国であり、タイヤの多くは外国産だった。「純国産タイヤを作って、安価に供給することは、わが国自動車の発達に大きく貢献するものと私は思った」と、『回想記』で石橋は振り返っている。
 1931年3月にブリヂストンを創立すると、故障品は無料で引き換える責任保証制でタイヤを販売した。しかし、品質は悪く、2~3年で10万本もの無償交換が出る始末。世間からは「ブリッヂストンは3年持たずにパンク(倒産)する」と揶揄された。
 ただ、低価格であることから次第に販路は拡大し、1933年には10万本のタイヤを輸出するようになる。その後も、中国や満州、朝鮮に海外工場を作り、終戦時には国内外で1万1000人以上の従業員を抱えるまでに成長する。
 戦後再出発したブリヂストンは、朝鮮戦争休戦後の天然ゴム暴落により、1950年、30億円の損失を出してしまう。キャッシュも不足し、後にブリヂストン最大の危機とも言われる経営難に陥った。
 銀行からの融資もままならない状況で、石橋はあえて研究開発に力を入れる決断を下す。以前から取り組んでいたレーヨンコードタイヤの開発を加速させ、1951年9月には本格生産に成功する。
 従来の綿コードタイヤに比べてレーヨンコードタイヤは低コストで耐久性に優れていた。レーヨンコードタイヤは爆発的にヒットし、1953年には業績も急回復。ブリヂストンは業界トップに躍り出ることとなった。
 1976年に石橋は死去するが、その後もブリヂストンは成長を続け、2005年には売上で世界一となる。ブリヂストンは同族経営ではないが、石橋流の楽観主義と先見性は受け継がれ、経営の“強さ”を支えている。

「好況がいつまでも続くわけはなく、また、不況がいつまでも続くわけはない。特に不況のときが大事で、次の好況に備え、飛躍の準備を怠らないことが大事だ」(『ブリヂストン 石橋正二郎伝』より)

■参考図書
石橋正二郎『回想記』(私家版)
林洋海『ブリヂストン 石橋正二郎伝』(現代書館)

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