「私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い、実際に起こした」(豊田英二)

 2013年9月17日、トヨタ自動車最高顧問である豊田英二が死去した。戦前からトヨタ自動車で技術開発に携わってきた英二は「中興の祖」と言われている。
 戦後、ドッジ・ラインによるデフレ不況でトヨタ自動車の業績は低迷していた。1949年には、トヨタ自動車の株価が額面の半分近くにまで落ち込んでしまう。翌1950年にはさらに苦しくなり、倒産も時間の問題と思われた。
 同年、トヨタ自動車はリストラを条件に銀行の支援を受けて立ち直る。英二も役員として人員整理の大なたを振るった。2000人の従業員を前に「いまのトヨタはこわれかかった船みたいなものだから、だれかに海に飛び込んでもらわない限り、沈んでしまう。だから人員整理を認めてほしい」と訴えたという。
 トヨタ自動車が本格的な再建に向かうのは、朝鮮戦争(1950~1953年)に伴う特需がきっかけだった。さらに、1955年には「クラウン」を発売。好評価を得て、タクシー需要や法人需要が増えていった。
 ここで英二が当時の石田退三社長に進言したのが、乗用車専門工場の建設だった。まだトラックとバスが主力だったトヨタ自動車にとって、乗用車専門工場は大きな賭けと考えられていた。クラウンの月販が2000台だった状況下で、英二は月産5000台の工場を提案。内心は1万台を構想していたというから、随分と強気だった。
 1959年に新しい元町工場が完成すると、当初は同業者からは驚かれ、ディーラーからは「こんな大きな工場をつくり、そこでつくった車を押し付けられたら、たまったものではない」と警戒された。しかし、時はまさに岩戸景気(1958~1961年)であり、元町工場はフル稼働となった。
 元町工場の建設について、英二は「国内競争の面でいえば、どんぐりの背比べの中から、トヨタがまず飛び出した」と振り返っている。その後も、モータリゼーションの波に乗り、トヨタ自動車は規模を拡大していく。1966年には「カローラ」も発売された。

「カローラはモータリゼーションの波に乗ったという見方もあるが、私はカローラでモータリゼーションを起こそうと思い、実際に起こしたと思っている。トヨタはカローラのためにエンジン(上郷工場)と組み立て(高岡工場)の2つの工場を建設した。うまくいったからこそ、のん気なことを言っていられるが、もし、モータリゼーションが起きなければ、いまごろ過剰設備に悩まされていただろう」(『決断 私の履歴書』より)

 1967年、当時の中川不器男社長の急逝により、英二が新社長に就任した。排出ガス規制や石油危機といったトラブルを乗り越えながら、1982年まで社長を務めた。英二は有名な「トヨタ生産方式」の確立にも尽力したほか、社長退任後も会長として日米自動車摩擦などに対応し、1983年には米ゼネラル・モーターズと提携を果たす。アメリカでの生産拡大によりトヨタ自動車は成長を続け、自動車総販売台数世界一という今日の地位を築くに至ったのである。

■参考文献
豊田英二『決断 私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)
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