「人間を能力以下に置くのは罪悪。人間尊重とはヘビー労働で人の創造性を高めること」(土光敏夫)

 1950年初夏、後に石川島播磨重工業(現・IHI)、東芝のトップを歴任することになる土光敏夫は、石川島重工業の社長に祭り上げられた。当時の石川島重工業は1億円以上の赤字を抱え、経営危機に陥っていた。そこで経営刷新のために、系列企業の石川島芝浦タービンで社長を務めていた土光に白羽の矢が立ったのだ。
 土光はまず、社内の領収書をすべて社長のデスクに持ってこさせるようにした。もちろん、土光がすべてをチェックすることはできないが、社員の意識を変えるには十分だった。翌月から、経費は半分くらいに激減したという。
 また、経費削減を進めるために役員から範を示すことにした。役員総数を減らし、役員報酬も部長職上位5人の平均にまで引き下げられた。
 稟議書や計画書のチェックも徹底した。土光はエンジニアとしていくつものプロジェクトに携わってきた経験から、書類に含まれるムダなところや不適切な部分を見抜く能力に優れていた。土光が計画をチェックし、数回押し戻すと、経費は当初の3分の1にまで減ったというから驚きだ。
 土光のもとで経費削減を徹底した石川島重工業は、「日本一のケチ会社」と評されるようになる。後に、鈴木善幸内閣で第2次臨時行政調査会長に就任し、行政改革を推進した土光は、メザシに玄米という質素な食生活から「メザシの土光」と呼ばれた。倹約精神は土光の人生を貫くものだった。
 経費削減の一方で、土光は技術開発と外国技術の導入を推進。1958年には、外国の造船会社として初めて、ブラジルへの進出も果たしている。
 1960年、大型タンカー建造を目指す石川島重工業は播磨造船所と合併し、石川島播磨重工業となった。石川島播磨重工業は重工メーカーとして、船舶、航空エンジン、産業機械、原動機・化工機、汎用機の各分野でリード。1963年には「造船世界一」(進水量世界一)を達成した。
 1964年に土光が社長を退くと、翌年、経営難だった東芝の社長に招聘される。東芝では徹底した権限委譲や機構改革により、腐っていた人材を活用した。
 土光は人材活用の哲学を次のように語っている。

「私はだいたい、人は能力以上に働かなければならないという重荷主義を信奉する。その人が100キロのものが持てるとすれば、120キロのものを持たせ、120キロが持てれば、140キロを持たす。人間を能力以下に置くのは、むしろ罪悪である。人間尊重とは、ヘビー労働をかけ、その人の創造性を高めることだ。
 やり甲斐、働き甲斐は、やってみてはじめて出てくる。やりもしない、働きもしないで、どうしてそのような喜びが得られるだろうか。生き甲斐にしてもそうだ。精いっぱい生きる努力をして、はじめて生きる喜びを知るのだ。
 遊んでいて金がもらえるような仕組みを放置する経営者は、人間尊重をしていない経営者といえる」(『私の履歴書』より)

 精神論ではなく具体的な制度で、土光は人材に適切な「重荷」を与えた。権限委譲に加え、自己申告・社内公募による人事異動を行い、適材適所の人員配置を実行した。
 こうした取り組みにより、東芝再建を果たした土光は1972年に社長を退く。その後も経団連会長などを歴任し、1988年8月4日、老衰でこの世を去った。

■参考図書
土光敏夫『私の履歴書』(日本経済新聞社)

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