「私たちが需要をつくり出したのである。そこに需要があるからつくるのではない」(本田宗一郎)

 ホンダを世界一のオートバイメーカーに押し上げたのが「スーパーカブ」である。昭和33年夏に発売されたスーパーカブは、従来のオートバイでもスクーターでもない革新的な商品だった。
 ホンダ創業者である本田宗一郎は「スーパーカブはそば屋に向いている」と考えた。「ソバも元気だおっかさん」などのキャッチコピーで売り出したスーパーカブは、それまでオートバイとは無縁だった業種にも浸透していった。
 日本中のオートバイが月産4万台だった時代に、スーパーカブだけで月産3万台を目指し、見事に成功を収める。その裏には、新たな市場を切り拓くフロンティア精神があった。

「私たちが需要をつくり出したのである。そこに需要があるからつくるのではない」(『本田宗一郎語録』より)

 既存の需要を見ているだけではイノベーションは起こせない。昭和30年代から日本でも導入されるようになったマーケティングリサーチについても、宗一郎は懐疑的だった。

「なぜ物をつくる専門家が、シロウトの大衆に聞かなければならないのだろうか。それでは専門家とはいえない。(略)大衆の意表に出ることが、発明、創意、ニューデザインだ」(『本田宗一郎からの手紙』より)

 ニーズよりもシーズを重視し、イノベーションを常に追求した宗一郎は、無類の競争好きでもあった。競争の中からイノベーションが生じるという感覚は、戦時中~占領期の計画経済ムードが残る昭和30年代の日本において異彩を放っていた。
 昭和36年、そんな宗一郎を苛立たせる出来事が起きる。日本の貿易自由化を控えて、通産省が特別産業振興臨時措置法(特振法)の立法化を推進したのだ。
 通産省の考えはこうだった。貿易が自由化されれば、日本の自動車メーカーはアメリカにやられてしまう。そこで国策でメーカーを集約し、過当競争を抑えることでアメリカ車に対抗しようとした。具体的には、量産車グループ(トヨタ、日産、マツダ)、特殊車グループ(プリンス、いすゞ、日野)、軽自動車グループ(富士重工、マツダ)に業界を統制し、新規参入を認めないというものだった。
 当時、四輪車を生産していなかったホンダにとって、特振法は巨大な参入障壁となる。宗一郎は「国の補助で事業をやって成功したためしは世界中にない」と反論した。この宗一郎の言葉は、政府による特定企業の救済が横行する現在においても新鮮な響きを失っていない。
 昭和38年に特振法が閣議決定されるが、「良品に国境なし」「自由競争こそが産業を育てる」という宗一郎の信念が世間に伝わったのか、産業界の反対などを受けて特振法は廃案となった。その後、通産省の思惑に反し、ホンダの四輪車が世界市場を席巻したのはご存知の通りである。

■参考図書
本田宗一郎『本田宗一郎 夢を力に』(日経ビジネス人文庫)
本田宗一郎研究会編『本田宗一郎語録』(小学館文庫)
片山修編『本田宗一郎からの手紙』(文春文庫)

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