「物事には裏と表がある。デメリットを恐れたら発展はない。メリットをそれ以上に大きくすればいい」(小倉昌男)

 今から40年近く前、「クロネコヤマトの宅急便」は、わずか11個の荷物からスタートした。「サービスが先、利益は後」という信念の下、ヤマトの全国ネットワークとビジネスモデルは完成されたのである。
 1959年、大和運輸(現・ヤマト運輸)の創業者・小倉康臣の次男である小倉昌男は、かつて「日本一のトラック会社」を標榜していた同社の苦境を憂えていた。主力となるべき路線トラック部門は採算割れとなっていた。日本の道路網が整備される中、康臣が近距離・小口貨物にこだわり、長距離・大口貨物に乗り遅れていたことが原因だった。
「箱根の山にはお化けがいる。越してはいけない」と言い張る康臣を説得し、1960年、昌男の主導で長距離便をスタートさせる。しかし、大口貨物に偏重した結果、重量逓減の運賃体系下では、売上は伸びたものの収益率はかえって悪化してしまう。そこで今度は小口貨物を重視する方針に転換するも、既に経営状況は深刻なまでに悪化してしまっていた。
 1971年に社長に就任した昌男は、ここであえて運送会社の理想像を追求する。当時、家庭から荷物を送るには、国鉄小荷物と郵便小包というお役所仕事に頼るしかなかった。顧客本位の新たなサービスを提供すれば、必ず強いニーズがあるに違いない。そうした確信から、昌男は主婦をターゲットとしたサービスを構想していく。

「客は主婦だから、サービス内容は明快でなくてはならない。地帯別の均一料金、荷造り不要、原則として翌日配達、全国どこでも受け取り、どこへでも運ぶ――」(『経営はロマンだ!』より)

 昌男の構想に対して、役員たちは無謀だと猛反発した。ただ、「負け犬」となった大和運輸が生き残る道はこれしかない。昌男は、航空業界のネットワークモデル(いわゆる「ハブ・アンド・スポーク・システム」)などを参考にしながら構想を具体化していき、役員たちも説得。1976年1月、「宅急便」がスタートした。
 初日の取り扱い個数はたったの11個で、その後も伸び悩む時期が続いた。それでも昌男は動じず、「サービスが先、利益は後」を合い言葉に宅急便事業を推進していった。ネットワーク事業である宅急便は、電話事業と同様、初期投資を回収するまで我慢すれば利益が出るようになる。サービスが良くなっていけば売上が増え、いずれ損益分岐点を超すとの信念だった。

「サービスとコストは二律背反の関係だから、利益を強調するとサービスが中途半端になってしまう。だから、あえて採算意識を捨てさせた。物事には何でも裏と表がある。デメリットを恐れて立ち止まったら発展はない。メリットをそれ以上に大きくすればいい」(『経営はロマンだ!』より)

 昌男の信念は実を結び、1980年度には取り扱い個数が国鉄小荷物と並んだ。同時に黒字化も達成し、1982年には社名をヤマト運輸とする。その後も同業他社との競争を勝ち抜き、1984年度、ついに宅急便の取り扱い個数は郵便小包を追い越したのである。

■参考図書
小倉昌男『経営はロマンだ!』(日経ビジネス人文庫)

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