「人間は本来、向上心があるのだから、問題を取り除けば意欲は熱気球のように上昇する」(樋口廣太郎)

 1985年、業界3位に甘んじていたアサヒビールのシェアは過去最低の9.6%となり、業界4位に陥落するのも間近と見られていた。アサヒビールではなく斜陽の「夕日ビール」と揶揄され、「せいぜいもって2年」「有効な手立てはもうない」と酷評される始末だった。
 そんなアサヒビールに、新社長としてやって来たのが樋口廣太郎である。樋口は、アサヒビールのメインバンクである住友銀行の副頭取を務めていた。
 樋口がアサヒビールに初出勤した際、最初に参加した会議では「もうビールはダメだ。新しく開発したお粥を売ろう」という話が議題になっていた。ビール会社がビールではなくお粥に力を入れようとしていたのである。
 社内の雰囲気も最悪だった。営業部門と生産部門が責任をなすりつけあい、口も聞かないくらいに反目していた。営業部門は「生産部門が良いビールを作らないから売れない」と主張し、生産部門は「良いビールを作っても営業部門の売り方が悪いから売れない」と主張した。責任転嫁によって社員のモチベーションは下がる一方だった。
 樋口は独自の「熱気球論」に基づき、こうした状況を打開していく。

「私は『熱気球論』という考え方を持っています。人間は本来、向上心を持っているのだから、困っている問題を取り除いてやれば、意欲は熱気球と同じように上昇し、人は前向きになるものだと信じて疑いません」(『わが経営と人生』より)

 早速、樋口はリーダーシップを発揮した。役員や部長・課長を集め、問題点を洗い出し、やりたいことを提案させたのである。
 当時のアサヒビールの工場設備は老朽化していた。温度管理システムも旧式で、他社に大きく出遅れていた。
 必要な設備投資を挙げさせていくと、総額で784億円にもなった。役員や社員は、どうせそんなお金は用意できないとあきらめ顔だったが、樋口は「よしわかった。発注時期を決めて、全部やろう」とその場で即決した。
 新製品の開発にも果敢に攻め込んだ。有名な「スーパードライ」が誕生したのも、樋口の決断によるものだった。
 既にアサヒビールでは1986年2月に発売された、コクがあってキレのいい生ビールが好評を博していた。これを受けて、消費者5000人を対象にした大規模な市場調査を実施することを決断。さらに、それまで反目していた生産部門と営業部門が一体となって開発を進めることで、すっきり辛口の革新的なスーパードライが完成した。
 1987年3月に発売されたスーパードライは飛ぶように売れた。ビールの新製品は初年度に100万箱売れればヒットと言われる中、わずか2カ月で140万箱を売り上げる。年間では1350万箱という脅威の数字を達成した。スーパードライのヒットによって、シェアは21%に躍進し、業界3位から業界2位へと上昇した。
 樋口は社長在任中の6年半で、累計6000億円の設備投資を実施している。社員のモチベーションを背景とした強気の設備投資が功を奏したと言える。1998年には、アサヒビールのシェアは39.5%となり、業界トップに立っている。

■参考図書
樋口廣太郎『わが経営と人生』(日本経済新聞社)

Design by http://f-tpl.com