「よい品をどんどん安く、はもう古臭いといわれるが、果たしてそうか」(中内功)

 ダイエー創業者の中内功は、消費者目線の低価格路線を信念としていた。

「『よい品をどんどん安く』
 こんな理念はもう古臭い、そんな時代はもう終わったといわれる。果たしてそうか。お客さまにとって、自分が買いたいと思う商品は安いに越したことはないはずだ」(『流通革命は終わらない』より)

 中内が初めて小売に参入したのは35歳の時だ。1957年9月23日、大阪の千林駅前に薬品、化粧品、日用雑貨を取り扱う店を出した。店名は「主婦の店ダイエー」である。
 オープン当初は薄利多売で成功するも、すぐに競合店との価格競争で売上が激減。「差異化」をするために菓子を取り扱ったところ、売上は順調に伸びていった。
 翌年には早速、チェーン化を展開する。1958年12月にダイエー2号店を神戸・三宮にオープン。食料品や衣料品、家電製品、さらには牛肉までを取り扱い、低価格路線で消費者の支持を集めた。
 安売りは、メーカーや問屋、他の小売から大きな反発を受ける。しかし、中内は消費者目線を貫いた。
 1963年7月には、神戸・三宮に「日本型総合スーパー」の原型ともいえる店舗を出店する。「リンゴからダイヤモンドまで」をキャッチフレーズに、豊富な品揃えを実現。この「ワンストップ・ショッピング」によって業績を伸ばし、全国へと店舗展開を進めていった。1972年8月、百貨店・三越を売上で抜き、売上高日本一を達成する。
 中内の低価格路線は徹底していた。1970年代の狂乱物価時代には、「物価値上がり阻止運動」を実施。300品目の価格を凍結することで、インフレに苦しむ消費者を応援した。
 しかし、そんなダイエーも、1980年代に入ると経営難に直面することになる。「コングロマーチャント(複合小売集団)」を目指して手がけていた新事業が、不振に陥っていったのだ。
 とりわけ業績の悪い、百貨店のプランタン、音響機器メーカーのクラウン、ボックスストア(倉庫型店舗)のビッグ・エーは、頭文字を取って「PCB汚染」と言われた。1983年2月期には、連結決算で初めて赤字に転落してしまう。
 ここで中内は、元ヤマハ社長の河島博副に白羽の矢を立てる。河島を中心に3カ年計画で徹底した構造改革をやらせた。ワンマンで知られる中内だが、この時はすべてを河島を筆頭とする若手グループに任せたという。3年後、ダイエーは黒字化を達成し、V字回復を遂げたのである。

■参考図書
中内功『流通革命は終わらない』(日本経済新聞社)

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